我が社のルーツは高知県です。高知県は古い時代から名高い“紙”の生産地でありました。明治43年(1910年)、その“土佐和紙”と呼ばれる高知県の特産品を、大阪や東京に販売するためにスタートした会社が、発展して、昭和42年(1967年)に東京都渋谷区に株式会社関紙業として子会社を設立し、さらにそれを発展させて、独立会社とし、現在のセキシステムサプライ株式会社となったのです。以下に、我が社の発祥の源である“土佐和紙”の歴史について、ご紹介します。 関 雅夫

土佐和紙の歴史

高知市の中心部から10数キロの西方、霊峰石槌山を源流とする清流、仁淀川が重畳たる四国山脈を流れぬけて平野に出る美しい風景のそのあたりは、昔から「和紙の里」と呼ばれてました。その「和紙の里」伊野町に「いの町紙の博物館」という静かなたたずまいの和風建物があります。
その「紙の博物館」は土佐和紙の歴史コーナー、楮などの原料の展示コーナー、抄紙の道具コーナー、和紙の試し漉きコーナー、土佐和紙製品・書籍販売コーナーなどに分かれていて、休日には各地から多くの人が訪れています。
私はこの夏休みを利用して帰省したおり、当社のルーツたる土佐和紙の盛衰を探るべく、この博物館を訪ねてみました。

土佐和紙の由来

土佐における製紙の最古の記録は、醍醐天皇の延長5年(927年)に完成した延喜式の中に見られます。延喜式というのは、醍醐天皇の勅命によって編纂された律令の施行細則法です。その中の納税法として、紙の貢納があり、土佐が紙を貢納していた記録が残されているのです。すなわち、この頃すでに土佐の広い地域で紙漉きが行われていたことが推測されるのです。
その後600年以上土佐和紙に関する資料はありませんが、季節や風土などの地理的条件に恵まれ、製紙原料である楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)などの育成に適している土佐の地において製紙業は着実に発展、定着して、農家の大事な副業となっていったようです。
天正10年(1853年)以来、豊臣秀吉が全国規模で行った太閤検地の土佐における記録が、天正15年完成の「長曽我部地検帳」として遺されていて、この記録のために使用された膨大な量の紙を見るとき、当時、土佐の各地で我々の想像をはるかに超える数の人々によって、相当の量の紙が漉かれていたことが考えられます。

土佐藩御用紙

関が原の合戦で西軍について敗れて除封された長曽我部盛親に代わって、慶長6年(1600年)遠州掛川6万石から土佐24万石の国主として入ってきた山内一豊に、(今も四万十川とならんで清流として名高い)仁淀川流域吾川郡伊野、成山地区で当時ようやく完成した七色紙が献上されましたが、いたく感激した一豊候は早速これを徳川将軍家に献上しました。
このときから七色紙は徳川末期にいたるまで、土佐藩御用紙として幕府指定の献上品となったのです。
そして、一豊候は紙の御用紙製造農家を任命、優遇し、また土佐和紙製法の秘密主義化(漉き場への家族以外の出入り禁止や紙漉きの国外旅行の禁止など)を徹底させ、製造業を土佐の産業の中心に、という政策を進めていったのです。
二代目藩主忠義のときに不世出の政治家野中兼山が執政の職について、藩政改革に着手、治水灌漑、新田開墾などの土木事業、林業の開発、漆、茶、桑、綿、麻そして楮、三椏などの栽培を奨励し、また紙漉きに対する貸付金制度や専売制度など優遇政策が進められ、土佐の産業は大きく発展を遂げました。
兼山の峻烈な政策は、その死後、反動で民間に媚びる政策に改革されたりして、土佐藩全体の産業も製紙も伸展衰退を繰り返し幕末に向かっていくのですが、兼山の遺した楮栽培奨励などの政策の功績は、明治になって土佐が製紙王国となったとき、確かなものになるのです。

維新前後

江戸時代も後半になって、土佐和紙業界は、ようやく楮などの原料の供給と参紙買取量の安定、大阪を中心とした藩を挙げての販売、藩庁による厳格な検査体制など永年の努力が実を結び始め、発展期に入りました。
そしてその課題は「いかにして生産量を増やすか」ということでありました。
万延元年(1860年、井伊大老が桜田門外で暗殺され、明治維新まで8年の年です)、数々の製紙法の考案と新しい紙の発明に取り組んでいた伊野村生まれの吉井源太が、従来の半紙2枚取りの簾桁(すげた)を改良して、半紙8枚取りや大判6枚取りの可能な大桁を完成させました。
この大桁の完成実用化が生産量を飛躍的に増大させ、元来貧弱であった土佐藩財政の基礎を確立せしめたのです。
明治維新において土佐藩が「薩長土」と呼ばれ薩摩、長州とともに維新の大業に功あったことは、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太、後藤象二郎、板垣退助など、維新の志士たちの偉大な活躍によることは勿論ですが、この財政建て直しが基盤となっていたのです。
ちなみにこの当時、土佐和紙の大阪市場において取引された額は年間大方100万両に近いものになっていたようです。
100万両の価値がどの程度のものであったかはわかりにくいところですが、たとえば米はこの当時、石あたり2両程度で取引されていたという資料がありますから、それで換算すれば、土佐和紙の年間売上高は50万石相当ということになります。当時、気候に恵まれた土佐では、二期作といって、年に二度米が採れるようになっていて、土佐藩としての表高24万石に対し、実高50万石といわれたりしていましたから、それと同程度の金額を売り上げるほどになっていたということが言えるかもしれません。
(薩摩は琉球経由による密貿易やサトウキビによる砂糖の大阪市場での販売などによって莫大な利益を蓄積していたし、長州は表高37万石でありながら、永年の新田開発によって実高100万石といわれるほどに拡大し、その余剰米や塩田開発による塩の大阪市場での販売によってやはり莫大な資金を持つようになっていたのです)

明治の勧業、地場産業への道「製紙王国・土佐」

大久保利通、木戸孝充などの明治新政府高官は欧米諸国との力の差を痛感し、富国強兵を大方針とし、その実現のため、国内産業の保護育成と、外国からの資本主義経済制度や技術の導入移植をその根幹とする殖産興業政策を進めました。
その背景の中で、高知県においては勧業上、もっとも優先して取り組むものとして、県道の開修などとともに、製紙の増進が取り上げられました。
元来、高知県は、楮、三椏などは県内いたるところで自生するような天恵の土地でありましたが、野中兼山の勧めた殖産事業によって県内の自給自足はもとより、広く県外の需要にも充てられるほどの量を産するようになっていました。
製紙用水は物部川、仁淀川、四万十川など(今もなお)清冽無比な河川を控え、その水量も豊富でありました。そして御用紙漉きの伝統が力強く脈打っていました。
製紙の各分野においてその伝統をリードしたのは既述の簾桁改良による産紙の増産を為した吉井源太でありました。その足跡は偉大であり、「製紙業界の恩人」として今に伝えられています。その取り組んだことは次のようなことでありました。

[1.]製紙法の改良および発明
簾桁の改良による飛躍的生産増への貢献。
従来の米糊に替えて白土を使用する法を発見し、紙を害虫から守ることに成功したこと。
[2.]新しい紙の発明および紙質の改良
従来わが国は文字を書くのに毛筆を用いていたが、維新後はペンを使うようになった。そのため、これに使うインク止め紙の製造が急務となったが、吉井源太は樹脂漉き入れによる製法を考案した。また、郵便制度の開設に合わせ極薄ハガキ翰紙「郵便半切紙」を考案し、コピー紙に発展させた。
そのほか、防水紙、防寒紙、軍艦工造紙、厚手図引き紙など30数種の新紙を考案した。
[3.]製紙原料の殖栽の奨励
[4.]技術の公開と指導
実地見学と製紙指導を受けるため訪ねるものに技術を公開、指導し、また各府県から招聘され指導にあたった。
[5.]販路開拓、拡張の努力
東京に出て市場を調査し、販路開拓を奨めた。そして安定して良質の紙を提供できる組織の設立に着手した。

吉井源太の努力はその後進に引き継がれ、県下製紙は家内工業から組織工業へと発展して行ったのです。その成果は日清戦争前頃から大幅な伸びとなって表われ、以後昭和初年まで、常に県内工業生産の首座を占め、全国的にも20%以上のシェアを保って圧倒的な地位を誇っていたのです。そしてその全国への販売を担ったのは新たに創業された紙問屋たちでした。彼らは傘下に多数の漉き家を持ち、原材料を供給し、漉かれた紙を買いとって、商品として加工包装し、全国に出荷したのです。当社の創業者初代関頼次もそのようなひとりでした。

究極の和紙 典具帳紙

その活発となった土佐和紙の中で中心となっていたのは郵便半切紙から発展したコピー紙であり、もう一つは土佐典具帖紙(てんぐじょうし)でありました。
典具帖紙は室町時代に美濃国郡上(ぐじょう)辺りで抄紙されていたもので、その地名に天印をもって符牒としたところから、「天郡上」の名称が生まれたものといわれていますが、やはり吉井源太が試し漉きに成功し、その薄くて、強靭な紙質から、油加工してタイプライター用紙にその用途を見出され、土佐和紙の代表商品となっていったものです。
そして国内需要だけではなく、大正から昭和にかけて盛んにアメリカへ輸出されていたのでした。

他の紙とは比べようもないほど薄く、しかも強くて、美しい典具帳紙は「究極の和紙」と呼ばれ、現在では国の無形文化財に指定されていますが、なかんずく、このたび、土佐典具帳紙の漉き手、浜田幸雄さんが重要無形文化財保持人(人間国宝)の認定を受けました。浜田さんの漉く紙は「カゲロウの羽」にも喩えられ、厚さ0.03ミリ、顔の前にひろげてみると、向かい合っている人の顔が透けて見えるほど薄くて美しい紙です。そして、典具帳紙は内外の美術品や古文書の修復にも使われていますが、海外の修復技術者の間では「テングジョウ」の名で通っているといわれています。

洋紙との競合・盛衰

すでに述べたように、明治新政府の勧めた殖産興業政策の骨子は、在来産業の保護育成と、外国からの資本主義経済の制度や技術の導入および移植でありました。しかし、在来産業の育成を支援するために導入移植されるはずの外国の機械や技術は産業側の態勢が整わないうちに続々上陸し始めました。その結果外来のそれらは、従来から製紙に携わっていた人々ではなく、新政府となんらかの関係を持つ特権資本によって利用されることになりました。
明治5年には渋沢栄一の唱導によって現在の王子製紙の前身となる製紙会社が創設されています。いわゆる国産洋紙がスタートしたのです。そして大型資本を背景にした大量生産方式の国産洋紙はたちまち飛躍的な発展を見せました。

当時、土佐和紙の需要の大半を占めていたのは、半紙や半切紙のような事務用、帳簿用、書簡用などの日用必需品分野でありましたが、これらが洋紙に取って代わられていったのです。ここに千年に亘って営々として技術の蓄積を行い、維新以来、新政府の指導のもとに近代化の途を模索し続けたわが国の和紙業界は、外来移植産業によって重大な危機を迎えたのです。
土佐和紙業界をはじめ全国和紙業界がその対策として取り組んだのは丸網抄紙機の導入による機械漉き和紙への転換でありました。丸網抄紙機は長網に対し、スピードに劣り、大量生産には向かないものの、和紙特有の薄くてしなやかな柔らかさを必要とする紙の生産に適していました。
高知県では既に設立されていた土佐和紙の伝統を継承する高知県製紙試験場(今も健在です)がその製法の開発とそれによる品種の開発に大活躍をしました。なかんずく、前述の典具帳紙が丸網抄紙機によって量産されるようになり、タイプライター用紙として大成功をしましたが、また化学工業や紡績工業にとって不可欠な資材であった羊皮紙すなわちパーチメント紙も、丸網抄紙機による工業化に成功しました。再び土佐和紙は隆盛に向かったのでした。

衰退

しかし、二度の大戦や不況を経ていく中で、また経済や消費が大型化していく中で、大資本すなわち洋紙化の流れは進み、和紙は次第にその領域を狭めていったのです。多くの領域を洋紙業界に取って代わられた和紙業界に残されていた市場として家庭用紙製品の分野がありました。
元来、紙というものは主に記録を残すために発達してきた高価な道具であり、現在のように使い捨ての手軽な消耗品という目的で使われるようになったのは比較的近年のことです。すなわち消費生活の向上によって「家庭紙」という分野が登場発展してきたのでした。従来、チリ紙は顔をふいたり、鼻をかんだりする前に、これを揉んで使っていたのでしたが、土佐和紙においては、昭和30年代、クレープを入れて肌触りを良くした京花紙を開発し、市場の拡大に大きく貢献し、ふたたび活況を迎えたのでした。しかし、昭和40年代、アメリカから「クリネックス」「スコッティ」が入ってきてこの分野もたちまち大型化されていったのです。

土佐和紙の伝統技術が生んだ高度機能紙

このようにして盛衰を繰り返してきた「土佐和紙」は今日、伝統工芸品の中にわずかにその名を留めているに過ぎません。統計によれば、明治34年全国で68,000戸もあった手漉き製紙工場が現在では、わずか450戸足らず。そのうち高知県においては46戸という状況です。しかし、「土佐和紙」は大衆紙としての存在はもはや失ったものの、書道や絵画、掛け軸、屏風や襖、古い寺などの維持、そして文化財を直したりする紙などの分野においてしっかりと存在をし続けています。
そして「土佐和紙」のその伝統技術は、さらに発展して産業用材料の分野に脈々と生きています。すなわち、薄く強いという特性を、レーヨンなどの化学合成素材を混合することによってさらに高機能化し、住宅用、食品包装材、医療用など、産業用の材料としてしっかりと発展しています。とりわけ吾川郡N社製の紙などは、土佐典具帖紙の技術にビスコース加工を施したもので、水は吸うが、濡れても破れない、しかもミクロン単位の薄い紙で、エレクトロニクス技術を支える電解コンデンサ紙として世界の70%以上のシェアを握るほどの活躍をしています。「土佐和紙」の技術は産業用のさまざまな分野で進化発展を続けているのです。

締めくくりとして、小豆島の出身で小説「二十四の瞳」の作者壷井栄の随筆の一節を次に掲げます。
--- これは「私の花物語」の中の「春欄」の一節である。ここでむしりとられる障子紙は土佐の手漉き紙でなければならない。手漉きのことは私の田舎(小豆島)では生漉き(きずき)といっていた。その生漉きの紙でなければむしりとったり、それがハリボテになるというような手ごたえはないわけだ。

ところで、このホックリのアカギレ膏薬の上にはりつけて踏んでもにじっても破れないような上質の紙というようなものは、私たちの生活からだんだん遠ざかっていって、というよりも、目覚ましい洋紙の発展で、手漉きの和紙は追い詰められているという方が、適切であるかもしれない。そうなると手漉きの和紙はますます文化財的価値を高める一方だ。土佐と限ったことはないかもしれないが、それが一旦障子紙となると郷里が近いせいもあるのか、私など土佐に限ると思いつめている。まさか破けたところをむしってアカギレ膏薬の上をハリボテにするようなことは今では全然ないが、土佐紙の値打ちというものが、日々の生活の中で米の飯のような感じでしみこんでいるのだ。試みに土佐の障子紙を貼ってみるとよい。朝夕のハタキの音が違ってくる。張りのある音楽的な音色を立てるし埃のたかり方も少ない。私たちが日々使っているハナカミにしたって、「典具」という手漉きのになると、どんなに両手でもんだって破れないのだからうれしいではないか・・・。