昭和41年、高知で土佐和紙の問屋を営んでいた「関株式会社」は、全国販売のための東京営業所として「株式会社関紙業」を設立しました。これが「セキシステムサプライ」の前身です。関紙業は、時代のニーズに合わせ、ほどなくティッシュペーパーなどの家庭用紙の卸販売へ業務を移行することになります。
セキシステムサプライの創業者である関雅夫は、その数年前に慶応大学に入学しました。アメリカ文化を研究するサークルに入り、麻布や六本木界隈のレストランを取材し、サークルの機関紙に記事を書いたり、また文化祭で、まだ珍しかったホットドッグやハンバーガー、コカ・コーラなどを販売。セキシステムサプライとファストフードとの関わりは、そのようにして始まりました。
昭和43年春に大学を卒業すると、雅夫は品川の紙問屋に修業に出ます。そして翌44年春、設立されたばかりの関紙業に入社。その年の夏には、父・頼次の指示に従いアメリカへ1ヶ月間の単身視察旅行に出かけます。頼次のオーダーは「紙に関わる何か新しいビジネスを探してこい」というものでした。
アメリカに着くと、ハンバーガーショップで、紙コップや包装紙などが惜しげもなく使い捨てられていました。スーパーマーケットでは、肉を紙やパルプのトレーにのせフィルムでラップして売っています。また、A&Wというハンバーガーショップへ車で乗りつけると、店員がオーダーを車まで取りに来て、数分後には届けてくれました。車の中で食べられるスタイルに驚き、雅夫は「自分がやるのは、このような分野だ」と思ったそうです。
その年の秋、高知の親会社から、「東京に日米合弁の会社で、飲料用紙コップやスーパーのパッケージ用資材を生産してる会社があるから、調査してくれ」という依頼がきます。訪ねて行ってみると、その会社は日本でスタートして5年目で、当初の大手ユーザーへの直接販売から、一般市場へディーラー経由で販売していく体制を考えている時期でありました。
そして、ユーザー先を紹介するから、ディーラーをやってみないか、ということになりました。そこで、何社かの紹介を得て、それらの取引は始まりました。
雅夫は、アメリカへの視察で、よく理解していたので、それらの初仕事は取り掛かりやすくスムーズにスタートを切ることが出来ました。そして、そのビジネスは順調に進展していきました。